■ 2008/08/18(Mon) 00:03
今回の話題はゲームにおける人々の想像力について。
はるか昔のファミコン時代のゲームでは、キャラクターは主に「記号」として表されていました。
ゲームの主人公であっても表情も分からないようなドット絵で表現され、動きも限られたことしかできない場合がほとんどでした。
しかし、そのころのゲームであってもきちんと「勇者」は「勇者」だったし、「マリオ」は「マリオ」でした。
敵キャラクターも、色が変化しただけでちゃんと強く見えました。
そんな風に感じることができたのは、知らず知らずのうちにプレイヤーが想像力を働かせて「これは勇者だ」などと思い込んでゲームをプレイしていたからなのだと思います。
それから長い月日が経ち、テレビゲームのキャラクターは立体的に表現されるようになったり、ドット絵であっても感情が豊かになったりと、プレイヤーが想像力を働かせなくてもゲームは問題なく進行するようになりました。
また多くのゲームにおいてゲーム内に人の声が入るようになったこともあり、それだけでも登場キャラクターの感情を表現することができるようになり、そういう意味ではますます「想像力を使わなくてもプレイできるゲーム」が増えてきていると思います。
しかしだからと言って、最近のゲームをプレイしても想像力を使わないということはありません。
たとえばニンテンドーDSのゲームではまれに、上下二つの画面をつなげて一つの大きな絵で表現する場合があります。
このとき、二つの画面の間は結構離れているのに、実際見てみるとあまり違和感はなく一つの絵としてみることができます。
これもプレイヤーの想像力がなせるワザです。
ただ、どちらの場合においても、ゲームがわざと想像力をかきたてるような表現にしているわけではなく、プレイヤーが知らず知らずのうちに想像力を働かせている、という使われ方がほとんどです。
そのあたりがまだ、ゲームが映画を超えられない、といわれる一つの理由かもしれませんね。
いまだに「表現力の追究」に躍起になっているゲームもたくさん発売されていますが、もう少しプレイヤーの「想像力」に委ねるゲームがあってもいいんじゃないかなと個人的には思います。
「ゲームには、映画にはないインタラクティブ性がある」と長年、映画に対する優位性をうたってきた割にはいまだに映画に対して優位にたっているとは感じられません。
それは、多くのゲームが、「ユーザーフレンドリーになりすぎているから」で、それはますますユーザーに想像力を必要としなくなるゲームを押し付けているようにも感じられます。
それに対して、映画などは、ユーザーフレンドリーではなく、あくまで作品の中身(登場人物の魅力を含む)で勝負している姿勢を貫いています。
そういう意味で、まだゲームは「余裕のない娯楽」なのだなと思います。
映画だけではなく、すべての娯楽のなかにあって、ゲームが、もっと一般的なエンターテインメントとして受け入れられる日が来ることを切に願ってます。
▼近況
7月あたりはいろいろ忙しく、日記を休んでいました。
8月に入って少し落ち着いてきたので、他のコンテンツを含めてまた更新して行こうと思います。
最近買ってプレイしたゲームはいずれもDSの『ドラクエ5』と『リズム天国ゴールド』。どっちもすごく面白いです。